愛犬コテツは旅立ってしまった
3月14日朝 5時 散々苦しんだ末カカの腕の中でコテツは逝ってしまった。もうあまり長くはないかと感じていたが、こんなに突然とは予想だにしなかった。犬は人の7倍の速さで歳をとると言うが、その老化の速さ、病状の進行の速さに感情が付いて行けなかった。
2006年4月生まれだから11歳11ヶ月だった。犬としても少し早い死である。小型犬ゆえ、寝る時もいつも一緒、室内では抱っこか横にいつも居た。飼い犬ではなく、家族の幼い一員であった。哀しみ、喪失感は気が変になりそうなほどである。
コテツが我が家の一員になったのは、写真の記録を辿ると2009年9月より少し前だったようだ。その前は、次男と長男が東京のマンションで幼い頃から飼っていた。息子らが我が家に帰って来るときに連れてきて、まるでネズミのように喜んで家族の間を走り回っていたのが思い出される。当時は、キャベツを柔らかくしたものが大好物で、コテツが来る日には女房殿がキャベツを買って、待ち受けていた。
息子が犬アレルギーの連れ合いと住むようになり、コテツは我が家にやって来た。我が家の一員になって9年。ほとんどどこへにも連れて行った。買い物する時も、車に置き去りは出来るだけ避けた。一人ぼっちにするのが、可愛そうだった。というのも、東京時代は、息子が朝出てから、帰る夜中まで一人ぼっちでマンションの一室で待っていたことがとても切なかった。思いっきり可愛がろうと思った。
小生の膝に乗ってくつろぐコテツ。

我が家に来てからしばらくしたら、人を見ると激しく吠えるようになってしまった。どうやら自分が守るべき家族と認識したのだろう。来客の呼び鈴がなっても、激しく吠えたてた。
食事中は自分も一員のつもりで、椅子に飛び乗り、食卓に手をかけて立ち上がり、おねだりするようになってしまった。その内、ドッグフードだけでは食べず、肉や魚などおかずを欲しがるようになってしまった。もちろん塩気は悪いので、口で塩抜きして、少しだけ与えた。偏食になってしまったのは思いっきり甘やかした結果である。
小生の会社勤め時代、帰宅すると走り回って喜んで、疲れ、ストレスを癒してくれた。


八ヶ岳に家を購入する前、一緒にペンションに泊まった時の写真。まだ、若々しくて可愛い。多分2010年の秋だろう。

コテツは、ここ1年、老化が急速に進み、目は眼圧が高く緑内障で片目は瞳孔は開いたままになり、目もあまり見えなくなっていた。以前はダイニングの椅子に難なく飛び乗っていたが、ここ半年でジャンプ力はかなり落ちていた。階段も上がれなくなっていた。前のペットもそうだが、犬の老化は後脚から始まるようだ。
そんなコテツは、若い頃から心臓の弁に問題があり、薬は手放せなかった。医者には、年取るにつれ咳をするようになり、さらに進むと卒倒することもあると予告されていたが、最近はその通りになってしまった。大好きな散歩もできなくなり、外に出たがるので、抱っこ散歩になっていた。
一ヶ月前ころ、咳した後に卒倒したので慌てて医者に診てもらうと、心臓が肥大化し、心臓の弁はベロベロ、肺水腫になっているとの診断であった。以来、心臓の薬と利尿剤を与えて、苦しそうな呼吸は一進一退になり始めた。そして、少し改善が見られたので、薬の量を半分に減らしたら、二日前から肩で呼吸しはじめ、13日にはさらに呼吸が苦しくなっていた。医者に診てもらい、また、利尿剤を倍以上に増やしたが、尿の回数が増えるなど薬効は認められず、夜中にさらに利尿剤を与えるも、どうにか呼吸しているほどに急速に悪化し、とても苦しみながらそして早朝旅立ってしまった。

こうして逝ってしまうと、諦めずに徹底的に生を追求するべきだったと後悔され、涙が止まらない。複数の医者に診てもらうとか、夜間でも医者を探して連れて行くべきだった。1日の生を追求することから、それが1ヶ月になり、1年になったかもしれない。
昨夜は、長女、長男夫婦と孫、次男夫婦皆でコテツとお別れすることができた。その時分かったことだが、コテツは小徹のつもりで名付けたと。
コテツは家族の中心におり、コテツの事情が家族の会話や行動の基準になっていた。夫婦の行動はいつもコテツのことを考えて決めていた。喪失感は半端ではないが、お骨になって戻ってきたコテツは、もう別れることなく、その思い出でがずっと癒してくれるだろう。
合掌
2006年4月生まれだから11歳11ヶ月だった。犬としても少し早い死である。小型犬ゆえ、寝る時もいつも一緒、室内では抱っこか横にいつも居た。飼い犬ではなく、家族の幼い一員であった。哀しみ、喪失感は気が変になりそうなほどである。
コテツが我が家の一員になったのは、写真の記録を辿ると2009年9月より少し前だったようだ。その前は、次男と長男が東京のマンションで幼い頃から飼っていた。息子らが我が家に帰って来るときに連れてきて、まるでネズミのように喜んで家族の間を走り回っていたのが思い出される。当時は、キャベツを柔らかくしたものが大好物で、コテツが来る日には女房殿がキャベツを買って、待ち受けていた。
息子が犬アレルギーの連れ合いと住むようになり、コテツは我が家にやって来た。我が家の一員になって9年。ほとんどどこへにも連れて行った。買い物する時も、車に置き去りは出来るだけ避けた。一人ぼっちにするのが、可愛そうだった。というのも、東京時代は、息子が朝出てから、帰る夜中まで一人ぼっちでマンションの一室で待っていたことがとても切なかった。思いっきり可愛がろうと思った。
小生の膝に乗ってくつろぐコテツ。

我が家に来てからしばらくしたら、人を見ると激しく吠えるようになってしまった。どうやら自分が守るべき家族と認識したのだろう。来客の呼び鈴がなっても、激しく吠えたてた。
食事中は自分も一員のつもりで、椅子に飛び乗り、食卓に手をかけて立ち上がり、おねだりするようになってしまった。その内、ドッグフードだけでは食べず、肉や魚などおかずを欲しがるようになってしまった。もちろん塩気は悪いので、口で塩抜きして、少しだけ与えた。偏食になってしまったのは思いっきり甘やかした結果である。
小生の会社勤め時代、帰宅すると走り回って喜んで、疲れ、ストレスを癒してくれた。


八ヶ岳に家を購入する前、一緒にペンションに泊まった時の写真。まだ、若々しくて可愛い。多分2010年の秋だろう。

コテツは、ここ1年、老化が急速に進み、目は眼圧が高く緑内障で片目は瞳孔は開いたままになり、目もあまり見えなくなっていた。以前はダイニングの椅子に難なく飛び乗っていたが、ここ半年でジャンプ力はかなり落ちていた。階段も上がれなくなっていた。前のペットもそうだが、犬の老化は後脚から始まるようだ。
そんなコテツは、若い頃から心臓の弁に問題があり、薬は手放せなかった。医者には、年取るにつれ咳をするようになり、さらに進むと卒倒することもあると予告されていたが、最近はその通りになってしまった。大好きな散歩もできなくなり、外に出たがるので、抱っこ散歩になっていた。
一ヶ月前ころ、咳した後に卒倒したので慌てて医者に診てもらうと、心臓が肥大化し、心臓の弁はベロベロ、肺水腫になっているとの診断であった。以来、心臓の薬と利尿剤を与えて、苦しそうな呼吸は一進一退になり始めた。そして、少し改善が見られたので、薬の量を半分に減らしたら、二日前から肩で呼吸しはじめ、13日にはさらに呼吸が苦しくなっていた。医者に診てもらい、また、利尿剤を倍以上に増やしたが、尿の回数が増えるなど薬効は認められず、夜中にさらに利尿剤を与えるも、どうにか呼吸しているほどに急速に悪化し、とても苦しみながらそして早朝旅立ってしまった。

こうして逝ってしまうと、諦めずに徹底的に生を追求するべきだったと後悔され、涙が止まらない。複数の医者に診てもらうとか、夜間でも医者を探して連れて行くべきだった。1日の生を追求することから、それが1ヶ月になり、1年になったかもしれない。
昨夜は、長女、長男夫婦と孫、次男夫婦皆でコテツとお別れすることができた。その時分かったことだが、コテツは小徹のつもりで名付けたと。
コテツは家族の中心におり、コテツの事情が家族の会話や行動の基準になっていた。夫婦の行動はいつもコテツのことを考えて決めていた。喪失感は半端ではないが、お骨になって戻ってきたコテツは、もう別れることなく、その思い出でがずっと癒してくれるだろう。
合掌

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